2017年2月25日土曜日

【関連動画】『町山智浩の映画塾』#193 「2001年宇宙の旅」<予習編><復習編>

source: KUBRICK.blog.jp|スタンリー・キューブリック



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鬼才S・キューブリック監督が、壮大なビジョンと観客を圧倒する強烈な視覚&サウンドを駆使して打ち立てた、SFの枠にとどまらない、映画史上に燦然と輝く金字塔的名作。

町山智浩の映画塾:#193 「2001年宇宙の旅」<予習編><復習編>




 映画評論家である町山智浩氏による『2001年…』の解説動画です。いくつか気になる点がありましたので、以下にそれを列挙したいと思います。

 まず、『これがシネラマだ』の動画はこちらでご紹介済みです。

 例の「ジャンプカット」の後に最初に登場する衛星はドイツ製ではなくアメリカ製です。

 モノリスの形状ですが最初はピラミッド(底面が正方形)だったと解説していますが、正確には正四面体(底面が正三角形)です。正四面体をボツにした理由が「関係ないピラミッドに見えるから」でした。

 小説版はキューブリックの執拗なチェックはあったにせよ、一語一句全てクラークが書いている筈です。動画の言い方だとキューブリックが直接小説版のテキストに手を入れたと誤解されそうです。「キューブリックとクラークが共同で作り出した物語をキューブリックは映画にし、クラークは小説にした」というのが正しい認識です。キューブリックは「同一コンセプトの物語を違う媒体で表現する試み」とインタビューで語っています。

 ディスカバリー号のアンテナ・ユニットのアニメーションはセル画だと説明していますが、正しくは文字通りアンテナ・ユニットのワイヤーフレームの模型を製作し、それを自由台座の上に乗せて少しずつ動かしながら連続して撮影したものをつなぎ合わせたものです。いわゆるストップモーション・アニメーションですね。セル画なのは「ATM」「COM」などの文字や図面です。

 ニュースパッドの画面はブラウン管ではなく、裏からのスクリーン投影です。当時のブラウン管は精度が悪く、あんなに映像が鮮明ではありません。それに画面が曲面ではないので、あからかにブラウン管ではありません。『2001年…』に登場するモニター画面のほとんどすべては裏側からのスクリーン投影(リア・プロジェクション)によるものです。

 ダグラス・トランブルについてはこちら、ジョン・ホイットニー・シニアについてはこちらで紹介済みです。ちなみにジョン・ホイットニーがキューブリックに呼ばれていたという話は管理人は知りません。

 スターゲート・シークエンスについてはこちら。「人類の夜明け」のシークエンスが「白い部屋」の前にあったという話は知りませんが、検討されていた可能性はあるでしょう。

 「白い部屋」は異星人がボーマンの記憶を実体化したものと説明していますが、これは明らかに間違いで、小説版にはっきりと「月に残したモノリスが地球のTV番組をモニターしていて、そのTVドラマに出てきたホテルを実体化した」と説明しています。

 こういった細かい点はまあさておいて、一番の問題はこの動画で町山氏が終始言及する「キラー・エイプ理論」についてです。町山氏はこれを「同族殺し」と定義し、猿人が人類に進化するキーになったと解釈しているようですが、それでは解釈が狭過ぎます。クラークやキューブリックは、猿人から人類への進化のキーは「(武器も含む)道具を(高度に)を使いこなせること」と考えていたんです。それを「殺人(同族殺戮本能)」とだけ解釈してしまうのはかなり恣意的で偏狭な解釈です。小説版では透明モノリスが猿人に道具の使い方をレクチャーしているシーンがでてきますし、それによって狩りを覚え、肉食によって飢餓による絶滅から抜け出し、やがて人類として地球の支配者となったとの描写があります。それと同時にその道具は武器にもなり得て、同族殺しににも使用されるのですが、それは道具の使用の一例に過ぎず、全体としては「猿人はモノリスから高度に道具を操る知恵を授かり、人類への進化の階段を上がった」という説明になっています。映画版でも当初猿人はバクには無関心でしたが、モノリス後はバクを殺し、骨を片手に肉を食っているシーンがあることから、それは同じでしょう。

 町山氏は何故かそれを「モノリスから同族殺しの方法を教わった」部分だけを抽出し、他の部分を無視。なおかつ「それは間違ってます」とドヤ顔で語っていますが、間違っているのはあなたです。しかも『博士…』『2001年…』『時計…』をキラー・エイプ理論でひとくくりにして三部作と説明していますが、もともと『2001年…』の後は『ナポレオン』のプロジェクトを進めていたわけで、それも事実と異なります。そもそも『博士…』『2001年…』『時計…』で(SF)三部作とする考え方は現在では否定されています。キューブリックも「原作のチョイスは単なる偶然で意図はない」と明言しています(とはいいつつ、その当時の映画のトレンドは意識していたでしょうけど)。

 独自理論・独自研究のお披露目はおおいに結構なのですが、事実誤認のまま自信満々に語る姿は痛々しい限り。まあ痛々しいだけならともかく、ここまで自信満々だと鵜呑みにする方もいらっしゃるでしょうから、ちょっと問題です。そういう意味では動画のタイトルは『町山智浩の映画塾』ではなく『町山智浩の単なる私見的映画論』とでもしておいてくれれば良かったのに、とは思いますね。