source: 映画.net -ネタバレ|感想|評判 2chまとめブログ-
1: オムコシ ★ 2015/04/08(水) 22:43:03.41 ID:???.net
私は、ルドルフ・グライナーです。
日本と世界を研究するドイツ人です。
私は、日本と世界の違いやドイツと日本の違いを研究しています。
今、ディズニーの映画が流行っていますね。
『アナと雪の女王』は、歌も大流行しました。
また『ベイマックス』は、大人から子どもまで楽しめる感動の名作でしたね。
『マレフィセント』も素晴らしかった。
みなさん、わかりますか。
ディズニー映画の素晴らしいところは、アニメが面白いからではないのです。
歴史あるアニメ会社が素晴らしいアニメ作品を作っても、そんなに驚くことはないでしょう。
素晴らしくて当然なんです。だから素晴らしくない。
ディズニー映画の素晴らしさはほかにあります。
「実写化」または「実写とアニメーションのコラボレーション」作品が素晴らしいのです。
今年封切りされる『シンデレラ』や、おとぎ話の世界のその後を描いた『イントゥ・ザ・ウッズ』などもきっと良作でしょう。
■実物大ガンダムの不思議
それに比べて日本のアニメーションは、実写化するとどうしてもうまくいかなくなってしまいます。
アニメーションの質やアニメーションの世界観などは、ディズニーと比べても日本のアニメーションは全く遜色がない。
それどころか、ディズニーを含めた世界すべてのアニメーションを凌駕しているといっても過言ではありません。
しかし、実写化となると、なぜかその映画は全く流行しないばかりか、映画ファンからもアニメファンからもバッシングに近い批判がきます。
それはなぜでしょうか? そのことについて、少し考えてみたいと思います。
日本のアニメは、非常に質が高いです。
そのため、アニメはアニメの中の世界観で完全に完結してしまい、
そのアニメからイマジネーションを膨らませて現実社会に投影し、発展させることができないのです。
以前、日本に行ったときに「実物大のガンダム」が展示されていました。
機動戦士ガンダムは、単なるロボットアニメではなく、その主人公の成長や心の葛藤、
そして、戦わなければならない状況などにおいて、細かく描写され、また、仲間の死などさまざまな人生の課題を考えさせられるアニメです。
勿論、私もDVDで見ましたが、その世界観やテーマ性は非常に素晴らしいものと思います。
しかし、「実物大」というのは不思議です。実は、「ガンダムの実物」というものは存在しません。
「実物大」といっても「比較する実物」が存在しないのです。
しかし、「実物大のガンダム」を見た人は、まるで実物が存在するかのように、「実物大ガンダム」を見ているのです。
要するに、多くの人の中において「実物が存在しないはずのガンダム」が、
頭の中で実物であるかのように映像がしっかりとリンクし、その映像を持った世界観が構築されているということになります。
■架空の物であるはずなのに、イメージが一致している
難しい書き方になったので、簡単に言い換えましょう。
日本のアニメは、世界観やその設定がしっかりしているために、そのアニメを見た人は、アニメの中の世界が現実の世界であるかのように、
そして現実にそれを見てきたかのような疑似体験をすることができ、
全く架空の存在であるものの実物を作り出すことができてしまうということになるのです。
さて、シンデレラや白雪姫など、ディズニーの扱っているアニメは、元々の「おとぎ話」が存在して、その話をディズニーがアニメ化したものです。
要するに、ディズニーのアニメではなく、おとぎ話から先に入った人からしてみれば、
ディズニーのアニメのキャラクターは、ひとつの選択肢でしかなく、ディズニーが描いた内容と全く違ったとしても、そんなに大きな違和感を感じません。
また、キャラクターの性格の設定も、かなりいい加減な情報の中において成立しています。
よって、昨年の映画の『マレフィセント』や少し古い映画ですが『フック』など、ディズニーアニメで悪役になった者たちであっても、
そのもののキャラクターを現代的感覚で描くということができ、それを実写化することによって、大きな反響を得ることができます。
http://tocana.jp/2015/04/post_6099_entry.html
※続く
日本と世界を研究するドイツ人です。
私は、日本と世界の違いやドイツと日本の違いを研究しています。
今、ディズニーの映画が流行っていますね。
『アナと雪の女王』は、歌も大流行しました。
また『ベイマックス』は、大人から子どもまで楽しめる感動の名作でしたね。
『マレフィセント』も素晴らしかった。
みなさん、わかりますか。
ディズニー映画の素晴らしいところは、アニメが面白いからではないのです。
歴史あるアニメ会社が素晴らしいアニメ作品を作っても、そんなに驚くことはないでしょう。
素晴らしくて当然なんです。だから素晴らしくない。
ディズニー映画の素晴らしさはほかにあります。
「実写化」または「実写とアニメーションのコラボレーション」作品が素晴らしいのです。
今年封切りされる『シンデレラ』や、おとぎ話の世界のその後を描いた『イントゥ・ザ・ウッズ』などもきっと良作でしょう。
■実物大ガンダムの不思議
それに比べて日本のアニメーションは、実写化するとどうしてもうまくいかなくなってしまいます。
アニメーションの質やアニメーションの世界観などは、ディズニーと比べても日本のアニメーションは全く遜色がない。
それどころか、ディズニーを含めた世界すべてのアニメーションを凌駕しているといっても過言ではありません。
しかし、実写化となると、なぜかその映画は全く流行しないばかりか、映画ファンからもアニメファンからもバッシングに近い批判がきます。
それはなぜでしょうか? そのことについて、少し考えてみたいと思います。
日本のアニメは、非常に質が高いです。
そのため、アニメはアニメの中の世界観で完全に完結してしまい、
そのアニメからイマジネーションを膨らませて現実社会に投影し、発展させることができないのです。
以前、日本に行ったときに「実物大のガンダム」が展示されていました。
機動戦士ガンダムは、単なるロボットアニメではなく、その主人公の成長や心の葛藤、
そして、戦わなければならない状況などにおいて、細かく描写され、また、仲間の死などさまざまな人生の課題を考えさせられるアニメです。
勿論、私もDVDで見ましたが、その世界観やテーマ性は非常に素晴らしいものと思います。
しかし、「実物大」というのは不思議です。実は、「ガンダムの実物」というものは存在しません。
「実物大」といっても「比較する実物」が存在しないのです。
しかし、「実物大のガンダム」を見た人は、まるで実物が存在するかのように、「実物大ガンダム」を見ているのです。
要するに、多くの人の中において「実物が存在しないはずのガンダム」が、
頭の中で実物であるかのように映像がしっかりとリンクし、その映像を持った世界観が構築されているということになります。
■架空の物であるはずなのに、イメージが一致している
難しい書き方になったので、簡単に言い換えましょう。
日本のアニメは、世界観やその設定がしっかりしているために、そのアニメを見た人は、アニメの中の世界が現実の世界であるかのように、
そして現実にそれを見てきたかのような疑似体験をすることができ、
全く架空の存在であるものの実物を作り出すことができてしまうということになるのです。
さて、シンデレラや白雪姫など、ディズニーの扱っているアニメは、元々の「おとぎ話」が存在して、その話をディズニーがアニメ化したものです。
要するに、ディズニーのアニメではなく、おとぎ話から先に入った人からしてみれば、
ディズニーのアニメのキャラクターは、ひとつの選択肢でしかなく、ディズニーが描いた内容と全く違ったとしても、そんなに大きな違和感を感じません。
また、キャラクターの性格の設定も、かなりいい加減な情報の中において成立しています。
よって、昨年の映画の『マレフィセント』や少し古い映画ですが『フック』など、ディズニーアニメで悪役になった者たちであっても、
そのもののキャラクターを現代的感覚で描くということができ、それを実写化することによって、大きな反響を得ることができます。
http://tocana.jp/2015/04/post_6099_entry.html
※続く
3: オムコシ ★ 2015/04/08(水) 22:45:20.35 ID:???.net
>>1の続き
「キャラクターの設定」と「頭の中の偶像」が、フレキシブルであることで、実物の人間がその役を行っても「ブレ」が小さいのです。
というか、もともとの設定が荒いということです。
これに対して、日本のアニメーションはかなり大変です。
キャラクター設定の中に、本来の物語とは全く関係のない、主人公の趣味なども設定として細かく描かれていることが少なくありません。
まさに、現実の人間がそこにいるかのような設定で、その設定から派生する「イメージ」はかなり固定されています。
しかし、その中のキャラクターはあくまでも「物語の中の登場人物」であり、「作家の空想の産物」なのです。
要するに「実物」は存在しない。
繰り返しになりますが、要するに「日本のアニメーション」は、その世界観やキャラクターの設定が非常に細かく作られていて、
そのトータルとしての世界観が「現実社会を超越している」ということが言えるのではないでしょうか。
逆に、その頭の中の世界観を多くの人が確立しており、なおかつ、
その世界観が、アニメを見た人ほとんどがほぼ同一のイメージを作り出すことができるということで、そのイメージが固定化し、
まさに三次元の現実世界にそのものが存在するかのような「共有性」を持つことができるのです。
これが、おとぎ話や非現実性の強いアメリカ的なアニメと日本のアニメの決定的な違いです。
見方を変えて言えば、ディズニーは、「ファンタジア」で音楽という現実とアニメーションの融合を、
そしてそのほかの映画で現実の実写とアニメーションの融合を行うことができました。
実際に融合している「継ぎ目」が多くの視聴者にわかってしまうということになります。
日本のアニメーションの場合は、アニメと現実社会を融合させる必要はありません。
実際に、観ている中に現実の社会、東京やニューヨークが存在し、その延長線上にしっかりとしたキャラクターが存在し、
そのうえで、そのキャラクターが実際の人間のような細かいスペックで動き回るのですから、実際の社会の人々がそこに出演してしまっては、
世界観が壊されてしまうということになるのです。
※続く
「キャラクターの設定」と「頭の中の偶像」が、フレキシブルであることで、実物の人間がその役を行っても「ブレ」が小さいのです。
というか、もともとの設定が荒いということです。
これに対して、日本のアニメーションはかなり大変です。
キャラクター設定の中に、本来の物語とは全く関係のない、主人公の趣味なども設定として細かく描かれていることが少なくありません。
まさに、現実の人間がそこにいるかのような設定で、その設定から派生する「イメージ」はかなり固定されています。
しかし、その中のキャラクターはあくまでも「物語の中の登場人物」であり、「作家の空想の産物」なのです。
要するに「実物」は存在しない。
繰り返しになりますが、要するに「日本のアニメーション」は、その世界観やキャラクターの設定が非常に細かく作られていて、
そのトータルとしての世界観が「現実社会を超越している」ということが言えるのではないでしょうか。
逆に、その頭の中の世界観を多くの人が確立しており、なおかつ、
その世界観が、アニメを見た人ほとんどがほぼ同一のイメージを作り出すことができるということで、そのイメージが固定化し、
まさに三次元の現実世界にそのものが存在するかのような「共有性」を持つことができるのです。
これが、おとぎ話や非現実性の強いアメリカ的なアニメと日本のアニメの決定的な違いです。
見方を変えて言えば、ディズニーは、「ファンタジア」で音楽という現実とアニメーションの融合を、
そしてそのほかの映画で現実の実写とアニメーションの融合を行うことができました。
実際に融合している「継ぎ目」が多くの視聴者にわかってしまうということになります。
日本のアニメーションの場合は、アニメと現実社会を融合させる必要はありません。
実際に、観ている中に現実の社会、東京やニューヨークが存在し、その延長線上にしっかりとしたキャラクターが存在し、
そのうえで、そのキャラクターが実際の人間のような細かいスペックで動き回るのですから、実際の社会の人々がそこに出演してしまっては、
世界観が壊されてしまうということになるのです。
※続く
続きを読む