source: KUBRICK.blog.jp|スタンリー・キューブリック
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キューブリック原案、スピルバーグ監督の映画『A.I.』の原作(というより、ほんのプロローグ)と、キューブリック逝去後に書かれたその続編2編が収められた短編集。『スーパー…』は映画化に際して多少の改変がされていますが、基本はそのままなので特に論評は必要ないでしょう。『スーパー…』は(悪本の見本のような)この本で翻訳され読んでいたので、この単行本には興味がなかったのですが、著者ブライアン・オールディズよるキューブリックとの創作の日々を記した記録『スタンリーの異常な愛情』が読みたくて今回改めて入手しました。
そこに描かれているのはクラークやラファエルと同じく、キューブリックの強大な力と個性に振り回される哀れな小説家の姿です。そして他の作品と同じく「台詞は重視しない」「ストーリーは重視するが、その語り方は原作者や脚本家の意思を排除する」「物語を各セクションに分割し、それをつなぎ合わせる」というキューブリック独自のアプローチ法です。そこには「素晴らしいストーリーさえあればあとは撮影や編集、音楽で自分の好きなように映画にできる」「そのためには他人の余計な意思や意図の存在しない、極力シンプルで飾り気のない脚本が欲しい」というキューブリックの本音が見え隠れします。
通常の映画監督は脚本や絵コンテの段階でほぼイメージを固め、撮影はあくまでそれを具体化する作業に過ぎません。「一発OK」と良しとする日本の映画界はまさにこれですし、早撮りで有名なスピルバーグもこのタイプです。それに対しキューブリックは撮影を「もう一つの創造の場」とし、撮影現場でのアドリブを推奨し、そこで起こるさまざまなやアイデアの発露を見極めてから良質のものだけを大量に撮影する監督です。だからこそ撮影に時間がかかるのだし、俳優やスタッフの拘束時間も長くなるのです(結果的に完成までの時間も・・・笑)。
こういったキューブリック独自の映画制作法を知りもせず、前者の通常の方法論で作られたと勘違いしてキューブリックを批判する論調(映画監督は管理能力も必要だ。撮影が際限なく延期するのはキューブリックに現場管理能力がないからだ・・・云々)をたまに見かけますが、勉強&知識不足も甚だしいと言わざるを得ません。映画監督によって多少の方法論はまちまちでしょうが、キューブリックは全く独自の方法論を採用していました。だからこそキューブリックは分業と因習と権利意識に縛られたハリウッドで映画を撮ろうとしなかったのです。
この『スタンリーの異常な愛情』には、ラファエルの『…オープン』と同じく、キューブリックにやられっぱなしだった実際に対して、文章上でやりかえしている姿もまま見受けられます。他人のプライドを傷つけることをものともせず、自我を押し通すキューブリックの圧倒的な支配力を感じさせますが、それは同時にキューブリックが抱え込んだ「プレッシャーの大きさ」も感じさせます。キューブリック存命時代をご存知の方なら、これほど世界中で次回作が期待され、話題にされた映画監督は他にいなかった事実を知っているはずです。その名声の大きさは「ミスター・ミツビシ」に名前だけでコンタクトを取るエピソードに象徴されています。オールディズは自身を「キューブリックの触手のひとつ」として卑下していますが、その触手は忘れられても本体(キューブリック本人)は忘れられることはないのです。むしろその触手に選ばれたことを(かなりの困難はあったにせよ)誇るべきだし、今となっては誇ってもいるようです。