source: KUBRICK.blog.jp|スタンリー・キューブリック
手塚治虫の代表作である『鉄腕アトム』は『アストロボーイ』と改題され、アメリカNBCのネットワークで1963年6月22日から1965年6月4日までオンエアされました。キューブリックは『博士の異常な愛情』のプロモーションのため、1964年頃にロンドンからニューヨークに居を移していましたので、ちょうどこのオンエアの時期と重なります。また、家族を同伴していたので、子供たちが観ていた『アストロボーイ』をキューブリックが観たであろうことは想像に難くありません。それについては手塚治虫本人も
昭和三十八年の一月一日からアトムが始まり、アメリカで放映されだしたのが、同じ年の八月か九月(注:手塚治虫の記憶違いで、実際は6月から)くらいです。それで手紙が暮れ(注:実際は翌年の1964年末)にきたんです。(引用:【考察・検証】キューブリックが『2001年宇宙の旅』の美術監督を手塚治虫にオファーしたのは本当か?を検証する)
と証言しています。
キューブリックは『アストロボーイ』で描かれている未来イメージを気に入って、手塚治虫に『2001年宇宙の旅』(注:その頃はタイトルは決まっていなかったし、現在観るようなリアリズムに徹した映画になる予定ではなかった)の美術監督を依頼する手紙を出すのですが、キューブリックが『アストロボーイ』のテーマ性を感じ取るほど熱心に観ていたかは疑問です。ただでさえ多忙なキューブリックが数回のオンエアを観るだけならともかく、毎週欠かさず熱心に観る、といのはビデオのない当時ちょっと考えられません。結局この依頼は手塚治虫の「食わせなければならない家族(スタッフ)が大勢いるのでロンドンへは行けない」という理由で実現はしなかったのですが、このやりとりだけで「キューブリックは手塚治虫のファンだった」と判断するにはいささか飛躍が過ぎると思います。
現に、昨年刊行された『2001年』制作に携わったスタッフの証言集をまとめた『2001:キューブリック クラーク』に、このエピソードは登場しません。また、キューブリックが他の手塚治虫の作品を観た(読んだ)という証言もありませんし、ましてやファンレターを手塚治虫に送った、という事実もありません。キューブリックにとって手塚治虫は「美術監督を依頼するに値する対象の一人」という認識であり(もちろんそれだけでも凄いことですが)、それ以上でもそれ以下でもなかったのではないかというのが実際ではないでしょうか。
キューブリックがこの時欲していたのは「未来を映像化(視覚化)できる才能」であり、その中の一人が手塚治虫だったのでしょう。オファーを断られた直後、キューブリックは元NASAのフレデリック・オードウェイやハリー・ラングと知り合い、NASAの宇宙開発の現実を知ったキューブリックは急速にリアリズムの徹底へと舵を切ります。その頃には手塚治虫の存在はキューブリックの頭の中からすっかり消えていたことでしょう。
逆に手塚治虫は
「ぼくもキューブリックの作品をいいかげんに見てた」「試写会で、画面に展開するロケットや月基地の光景を見ながら、ぼくは感慨無量であった。」
というコメントからわかるように、キューブリックへのシンパシーを増大させてゆきます。その影響はその後の手塚作品のあちこちに表出していますが、それはここで語らずとも自明でしょう。
このように、直接の交流は二度にわたる手紙のやり取りのみだったのですが、キューブリックと手塚治虫の間には奇妙な共通性があります。『時計じかけのオレンジ』と『時計仕掛けのりんご』(手塚治虫はキューブリックが『時計…』を映画化を決定する前にこの作品を書いた)、『アーリアン・ペーパーズ』と『アドルフに告ぐ』、『A.I.』と『鉄腕アトム』(元ネタが『ピノキオ』である偶然)・・・。西洋と東洋の二人の同い年の「天才」が興味を持ったテーマが似通っているのは、やはり二人の間に「共通する感覚」があったのだろうと思います。ですが、その「感覚」を根拠に「キューブリックは手塚治虫のファンだ」と断じるのは暴論というもの(長男である手塚眞氏がそういう分には微笑ましくも思えますが)。もしファンと言うとするならば、「ぼくはキューブリックにどうしても会いたくて、ニューヨークに何回か行ったんだけれど、いつでもいなかったですね。いなかったのは当然で、撮影であちらこちら飛びまわっていたのでしょうね(キューブリックがロンドンに居を据え、大の飛行機嫌いであることを知らなかった)」と残念そうに語る手塚治虫の「片思い」だったのではないでしょうか。