source: KUBRICK.blog.jp|スタンリー・キューブリック
※ジャックが斧で妻子を襲うのは斧がネイティヴ・アメリカンを象徴しているから(原作ではクリケットの槌)。もちろん視覚的に恐怖感を煽るのも理由のひとつだ。
キューブリックの映画版『シャイニング』では、ホテルに巣食う悪霊の正体が「過去にこの土地を聖地としていたネイティブ・アメリカン(インディアン)の怨霊」となっています。今回はそれを示すシーンや台詞を集め、この事を証明したいと思います。
(1)ジャックがダニーに「ドナー隊の悲劇」に付いて教える
(2)現支配人のアルマンがジャックに「このホテルはネイティブ・アメリカンの聖地で墓地の上に建っている」と説明する。
(3)ホテルの外観が山小屋風で、どことなく西部開拓時代(ネイティブ・アメリカンにとっては搾取・侵略)を思わせる。
(4)ホテルには壁面やカーペットの柄など、ネイティブ・アメリカンの意匠があちこちに飾られている。
(5)ウェンディの髪型やセーターの柄がネイティブ・アメリカン風である
(6)ジャックが禁酒を破る酒が「ジャック・ダニエル」である
(7)ジャックが「白人の責務」に言及する
(8)ジャックやグレイディがハロランを「ニガー」と呼び、白人優位主義で人種差別的である事が示唆される
(9)食料倉庫にカルメット缶のラベルが見えるように置いてある
(10)ジャックが使う凶器が斧(トマホークはネイティブ・アメリカンの象徴)である
(11)ジャックが写る写真の日付が1921年(禁酒法時代)のアメリカ独立記念日(ネイティブ・アメリカンにとっては土地を奪われた屈辱の日)である
(12)ネイティブ・アメリカンの飾りからテニスボールが突然飛び出してくる(このシーンは初公開版には存在したが、思い直したキューブリックによってすぐカットされた)
以上のように、このホテルに巣食う悪霊の正体がネイティブ・アメリカンの怨霊である事は明確に示されています。また、霊が白人ばかりなのは、ネイティブ・アメリカンにとってヨーロッパから渡って来た白人達はすべて忌むべき存在だからです。
キューブリックは典型的なアメリカ白人男性が持つ、過去の苛烈な白人至上主義と、現在でも心の奥底に潜んでいるその人種的偏見、そしてかつてネイティブ・アメリカンを迫害したという負い目を巧みに利用し、「ネイティブアメリカンの悪霊によって白人が惑わされ、狂わされ、殺し合いをする」という設定をこのシャイニングに持ち込みました。しかしあえてそれを台詞等ではっきりとは明示せず、本質を隠し、潜在意識に訴える事によって観客を恐怖のどん底に陥れようとしています。一時期問題になったサブリミナルに近い方法論ですが、セリフや小道具、セットなどはっきりと映像に映っているので「示唆」や「暗喩」の範疇と考えた方が正しいでしょう。
そう考えれば、ジャックがネイティブ・アメリカンの怨霊によってホテルに霊として取り込まれるラストシーンでなければならないのが理解できます。これはアメリカ人が背負った罪深い業なのです。その業はアメリカ人である以上、ネイティブ・アメリカンを追放して手に入れた土地に住み続ける以上、逃れられない「業」だからです。
こうした事実を積み上げてゆくと、何故アメリカで最も怖い映画として『シャイニング』の人気が高いのか、また、その反面日本ではあまり怖いと思われないのかが理解できるかと思います。日本人には過去に他民族を激烈に迫害し、それを良心の呵責として自意識の中に沈殿いるという感覚はない(迫害の事実があったかどうかではなく、その感覚・自覚が無いという意味)と思いますので、この『シャイニング』の怖さが理解できないのです。ネイティブ・アメリカンの怨念を怖がるのは基本的にアメリカ人だけですから、『シャイニング』に全米版、コンチネンタル版の2種類があるのもこういった理由があるからと考えられます。
結論:キューブリック版『シャイニング』で幽霊たちを操り、最終的にジャックをも霊として取り込んだオーバールック・ホテルに巣食う悪霊の正体は、かつてこの地を聖地としたネイティブ・アメリカンの怨霊。ロイドやグレイディ、双子の少女やバルルームの幽霊などはその怨霊によって殺された白人の霊で、ホテル=ネイティブ・アメリカンの怨霊に操られているに過ぎない。キューブリックがこのように霊の正体を改変した理由は、アメリカ人の潜在的な罪の意識(業)に訴える事で観客に精神的な恐怖感を与えるため。(キューブリックの言う「夜も眠れなくなるような怖い映画が創りたい」)
因に原作でも「カルマ(業)」が悪霊の正体ですが、映画とは違い「ホテルで繰り返されてきた殺人や犯罪といった悪しき行いや意識などの負の因果」で、そういった因果がうずたかく積もったホテルが悪の化身「悪魔」となり、聖なる輝き(シャイニング)を持つ「天使」の様な少年を取り込もうと画策するも、最終的には父親の「至上の愛」(キリスト教的な自己犠牲を伴う愛)がそれに勝り、悪魔を打ち負かすというストーリーになっています。ところが無神論者であるキューブリックはこの「神聖vs悪魔」というプロットは全く興味を示さず、原作の持つ宗教的な意味合いを全てアメリカの歴史的・人種的なものに改変してしまいました。キングがキューブリックを未だに批判するのは、原作に込めたキリスト教のモチーフを全て捨て去ってしまった事も原因のひとつなのかも知れません。