2015年11月24日火曜日

【考察・検証】キューブリック版とエイドリアン・ライン版の『ロリータ』を比較・検証し、それぞれの映画化の違いを考察する。

source: KUBRICK.blog.jp|スタンリー・キューブリック



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 キューブリック版『ロリータ』についての論考はここここをご覧ください。ここでは主にエイドリアン・ライン版について考察します。


(1)主要4人のキャスティングの比較

●キューブリック版

ロリータ・・・・スー・リオン
ハンバート・・・ジェームズ・メイソン
シャーロット・・シェリー・ウィンタース
キルティ・・・・ピーター・セラーズ

●エイドリアン・ライン版

ロリータ・・・・ドミニク・スウェイン
ハンバート・・・ジェリミー・アイアンズ
シャーロット・・メラニー・グリフィス
キルティ・・・・フランク・ランジェラ

 一般的に原作のイメージに近いのはライン版の方だと言われています。それには同意するのですが、ハンバート役のジェリミー・アイアンズが中年という割には若々しく、普通にイケメンなので「知性の高い教養人の裏に隠された少女偏愛という変態性向」があまり感じられません。ロリータ役のドミニク・スウェインには賛否両論ありますが、小悪魔的な要素が少ない気がします。どこにでもいる童顔の少女、といった印象です。シャーロット役のメラニー・グリフィスは確かに原作に近いのですが、髪型やファッションが奇抜すぎて違和感があります。キルティ役のフランク・ランジェラはまさに原作通りなのですが、映像にするとあまりインパクトがありません。付け加えるならば、オープニングに登場したハンバート少年期の恋人アナベラと、ロリータの間に共通項が見いだせないため、ハンバートがロリータに一目惚れするシーンに全く説得力がありません。


(2)時代描写

●キューブリック版
1960年代初頭に製作され、映画の設定は同時代

●エイドリアン・ライン版
1990年代中頃に製作され、1940年代後半を再現

 これは製作時と映画の時代背景が同じのキューブリック版が方が有利ですが、それにしてもエイドリアン・ライン版が描く1940年代は違和感がありすぎます。いかにも1990年代的1940年代です。


(3)プロット

●キューブリック版
キルティが殺される場面からスタートする。

●エイドリアン・ライン版
キルティを殺害し、呆然と車を運転している場面からスタートする。

 キューブリックはキルティが殺害されたシーンを頭に持ってきた理由を「ハンバートとロリータが寝てしまった後に観客が物語に興味を失ってしまうのを避けるため、ハンバートに冒頭なんの説明もなくキルティを撃たせれば、観客はなぜキルティが撃たれたのかと映画の終わりまで思い続けるに違いない」と説明しています。ライン版は打ちひしがれたハンバートの表情から「この映画は哀れな中年男性の悲劇の物語である」と宣言している印象を与えます(原作では少しニュアンスが違っていて、単にボケっと対向車線をゆっくりと走っているだけで悲劇的な印象はない)。


(3)少女偏愛の描写

●キューブリック版
ヘイズ婦人と抱き合う際にロリータの写真を見るシーンや、ダンスパーティーや庭でロリータに送る視線でかろうじて表現している。

●エイドリアン・ライン版
ボイスオーバーで心情を語るシーンが中心。一部変態行為を伺わせるシーン(庭のブランコのシーン)もあるが、エロティックな表現のそのほとんどがロリータからハンバートに向けられたもの。

 原作の少女偏愛の定義は「少女の何気ない日常の所作に性的興奮を覚える」というものです。ハンバートがロリータにエロティックな妄想をするシーンより、ロリータがハンバートに媚びるシーンが大多数を占めるライン版ではロリータが単なるビッチに見えてしまい、ハンバートはその被害者であるという誤った印象を観客に与えています。


(4)キルティの描写

●キューブリック版
物語の最初から登場。ビアズリーでも「ゼムフ博士」として登場し、異様な存在感を発揮している。

●エイドリアン・ライン版
原作に忠実。

 キルティの存在感はキューブリック版では誇張され、その役割は大きくなっています。逆にライン版ではかなり原作に忠実に描かれています。


(5)演出

●キューブリック版
ブラック・コメディ色を強調。

●エイドリアン・ライン版
サスペンスやロードムービー色を強調。

 両版ともなるべくポルノ色を薄めようとしていますが、効果があったかどうかは疑問が残ります。これは小説『ロリータ』の映画化がいかに難しいかを如実に表しています。


(6)原作について

 原作は「少女偏愛という性癖と妄想に取り憑かれたある中年男性が、一人の少女との出会いと別れを通じで真実の愛に気付く物語を、自虐とユーモアを織り交ぜて綴った手記」という体裁になっています。その描写は非常に持って回った言い方に終止していますが、結局はフェティシズムと肉欲がその大部分を占めています。だからこそ、最後の最後にロリータを真に愛するに至る(ハンバートはロリータがニンフェットでなくていもいいから、一生側にいて欲しいと懇願する)場面とのコントラストが絶妙かつ寓話的で、この物語の最も感動的にしているのです。


(6)コンセプト

●キューブリック版
小説版と同じコンセプトで映画化。

●エイドリアン・ライン版
破滅的な悲恋物語として映画化。

 キューブリック版は小説の意図を映像化しようと努めてはいますが、成功しているとは言い難いです。ライン版は少年期の少女との純愛と挫折から立ち直れない可哀想なイケメン中年男性が、その少女の面影があるロリータに恋をしたが、正体不明の怪人がその関係を見抜き横恋慕、その男を殺し自身も破滅するという悲恋物語として描かれています。


(7)コンセプトの視覚化

●キューブリック版
打ち抜かれた少女の肖像画で少女愛との決別を表現。

●エイドリアン・ライン版
妊婦になったロリータにかつて少女(ニンフェット)だった頃のロリータをオーバーラップさせる事によって悲恋物語である事を表現。



 以上の点を踏まえた上で考察してみると、キューブリックもラインも原作を上手く映像化できていない事に気づきます。それはキューブリックの「もし、この映画を撮り直すことができたら、私はナボコフと同じウェイトをかけて、彼らのエロティックな要素を強調するだろう(『イメージフォーラム キューブリック』より)」というコメントが示す通りです。しかしキューブリックの時代も、ラインの時代も、そして現在も、中年男性が少女に向ける肉欲を映像化するなどは規制の問題で絶対不可能です。

 原作ではハンバートがロリータや他の少女に対して「妄想」し「視姦」し「変態行動」する様が、高尚な文体で恍惚的に語られています。例えばハンバートがロリータに劇に出るのを許可するのと引き換えに、教室で自分の前に座る美少女が髪を指に巻きつける仕草を視姦しながら、ロリータに手淫させるシーンなどです。(まあその変態のタガを外してしまったのはロリータ自身なのですが)つまり『ロリータ』という物語はその根幹の部分からして映画化できない物語なのです。

 そこで二人の映画監督は対照的なアプローチをして映画化に踏み切ります。キューブリックは原作の「自虐とユーモア」の部分を強調してエロティシズムを薄め、そのための一番有効なキャスティングを(キルティの存在感を強調してピーター・セラーズをキャスティングしたのはそのため)して、コンセプトだけは原作に忠実に映画化しました。一方のラインはキャスティングや台詞、シチュエーションなどはなるべく原作に忠実にしつつ、コンセプトを悲恋と自滅の物語とする事で映画化に漕ぎ着けました。

結論:原作の少女偏愛というフェティシズムと肉欲を映像化できない制限の中、キューブリックは皮肉な笑いを誘う寓話として、ラインは自滅してゆく哀れな中年男の悲恋物語として映画化した。そう結論づけられる理由は上記の通り。

 ライン版のハンバートに変態性が薄く、ロリータに少女偏愛を感じさせる要素があまりないのは以上のような理由があります。原作の「皮肉に満ちた寓話」に忠実なキューブリック版、原作の「ストーリーや台詞」に忠実なライン版、どちらを支持するかは個人の判断によりますが、ライン版が少女偏愛に対してやや同情的であるのに対して、原作やキューブリック版は「人間の本質的な性欲の変種であり、こういった自滅に陥る可能性は少女偏愛に限らずは誰にでもありうる」として突き放した表現になっています。原作では殺人罪で逮捕された獄中においてでさえ、その変態性向を止めないハンバートの屈折した心情が自虐的に綴られています。「変態は死ななきゃ治らない」「でもそう言うあんただってほら、変態だろ?」という作者の黒い笑いが聞こえてきそうですが、そういった意味ではキューブリック版のアプローチの方が評価できるのではないか、そう考えています。

Humbert Humbert と Norman Rockwell―映画 Lolita(1997)の功罪を再考する中田晶子

 上記のテキストは主にライン版を論考したものですが、「ラインは少女偏愛を否定的に描こうとしたにもかかわらず(7)のシーンを加えたのは不可解」と分析しています。全くその通りで、ラインがそのつもりなら原作にある「私は(ロリータに対する)強姦罪なら有罪だが、殺人罪なら無罪だ」というハンバートの宣言を重要視しなければなりません。しかし、演じたジェレミー・アイアンズが「子供に対する性的虐待の実態を知らなければ解決もできない、子供の教育もできない」と語ったほどには性的虐待というニュアンスでは描かれていませんし、逆に悲恋物語としてハンバートに同情心すら感じさせてしまっています。何がどうしてこうなってしまったのか分かりませんが、表現方法以前にコンセプトを徹底できなかったラインの力不足であるのは否めないでしょう。