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7月29日に公開された映画『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督)がこのほど興行収入53億円を突破し、大ヒットを続けている。
その理由について、さまざまな見方が示されているが、なぜ社会現象といえる程にまで関心が高まっているのだろうか。
アニメ評論家の藤津亮太さんが、マニアックな視点で探った。
◇人は“怪獣”に何を見いだすのか
『シン・ゴジラ』が大ヒットしている。現時点で興行収入53億円を超えて、邦画実写で今年トップの成績となった。
この映画の特徴は、作品を見た人が「何かを語りたくなる」ところだ。
ネットにはプロの文筆業も含め、さまざまな考察が披露されている。
こうした“『シン・ゴジラ』語り”が、口コミとなってさらに映画への関心が高まっている。
それにしても、どうして『シン・ゴジラ』を見た人はこの映画について語りたくなるのか。
それは、この映画が「怪獣映画」だからだ。
たとえば、TVアニメ『コンクリート・レボルティオ~超人幻想~』の中に「日本『怪獣』史」という前後編(第4話・第5話)のエピソードがある。
同作は、昭和時代のマンガ・アニメ・特撮などの人気キャラクターを参照しつつ造型された“超人”たちの物語で、その前後編は怪獣を俎上そじょうに載せたエピソードだ。
そこでは「人は怪獣に何を見いだすのか?」という怪獣論が織り込まれていた。
「巨大な生物」に過ぎないのか、「巨大災害の象徴」なのか、それとも「虐げられたものの声なき代弁者」なのか。
ストーリーの中でも複数の意見が登場する。
このように「怪獣」とは、さまざまな意見を誘い出す存在なのだ。
それは観客がその内実を、さまざまに想像できる「ブラックボックス」だからだ。
◇「怪獣映画」の3要素
では「怪獣」はどうしてブラックボックスとして機能してしまうのか。
「怪獣映画」と聞いて、多くの人は、どんな内容を思い浮かべるだろうか。
長い歴史の中で、さまざまなスタイルの怪獣映画が作られてきたが、アーキタイプ(原型)のひとつといえるのが『原子怪獣現わる』(1953年)だ。
『原子怪獣現わる』は、北極圏で行われた核実験の影響で、全長30メートルの恐竜リドサウルスが姿を見せるところから始まる。
リドサウルスは北アメリカ大陸を移動し、市街地などで大暴れをする。そして、この恐竜は新兵器によって倒される。
『原子怪獣現わる』は『ゴジラ』(54年)に影響を与えた一作ともいわれており、確かに大まかな筋立ては似ていて、これが「怪獣映画」のひとつのパターンとなって継承されていく。
この筋立てからもわかるように「怪獣映画」の怪獣に関する部分は、大きく三つの要素からできている
(1)怪獣の出自・性質をめぐる物語
(2)怪獣による都市襲撃
(3)怪獣を止めようとする人間との攻防
たとえば『ゴジラ』で、ヒロイン山根恵美子をめぐる三角関係が描かれるように、ここに絡むかたちで人間側のドラマも絡んでくる場合も多いが、ここでは人間と怪獣の関わりについてテーマを絞って考えていこう。
写真:「シン・ゴジラ」
読売新聞 2016年09月03日 05時20分
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160902-OYT8T50007.html?page_no=1
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160902-OYT8T50007.html?page_no=2
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◇「文明破壊の恐怖」「戦争への脅威」を象徴
(1)は、怪獣の存在を一定のリアリティーでもって観客に受け止めてもらうには欠かせない要素だ。
ここの説明に、科学の言葉を使えばSF色を帯びるし、神話や伝承に積極的な意味を持たせれば伝奇的な世界観になる。
これは「怪獣映画」だけでなく、吸血鬼やゾンビなどが登場するモンスター映画にも見られる要素だが、両者を分けているのは、怪獣の特徴である「巨大な体」である。
怪獣は巨大な体だからこそ(2)と(3)が特別な意味をもってくるのだ。
(2)の「怪獣の都市襲撃」が描くのは、文明が破壊される恐怖である。
栄華を誇った人間の世界がみるみるうちに瓦礫がれきと化す恐怖。
これは巨大災害を描いたディザスター映画と同じ恐怖だ。
怪獣は巨大な存在であるが故に、映画の中で天変地異の象徴とでもいうべき機能を得ているのだ。
一方、(3)で描かれる人間との攻防は「戦争映画」に重ねられる。
その巨大さ故に、個人や警察機構では対処しきれない怪獣は、必然的に自衛隊、あるいは防衛軍などと呼ばれる軍隊と戦うことになる。
ここで怪獣は抽象的な「外部からやってくる脅威」を体現していることになる。
ちなにみにゾンビ映画は等身大モンスターではあるが、この3要素をかなりクリアしている。
ただしゾンビは、文明を脅かすにせよ、敵として対峙するにせよ、「内側に潜む恐怖」として描かれていて、怪獣のような「外部からやってくる脅威」とはベクトルが逆方向を向いている。
大ざっぱにわけても、この三つの要素が「怪獣映画」の中に存在しており、どの部分をどのぐらい気にかけて作品を受け止めるかは千差万別だ。
だからこそ「怪獣」はブラックボックスとして機能するのだ。
とはいえ、ただブラックボックスだからといって、自然と議論百出となるわけではない。
もちろんそこには観客の心に強く引っかかる何かが必要だ。
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◇徹底した「プロセスへのこだわり」が生むリアリティー
『シン・ゴジラ』の場合は、「怪獣映画」の3要素をしっかりと押さえながらも、それぞれの描き方は、「怪獣映画」のクリシエ(決まり切った表現)を排した描写を積み重ねている。
クリシエを排した表現によって観客は、改めて「ゴジラ出現」という前人未到の出来事に立ち会うことになった。
例えば、「怪獣が登場すれば勇壮なマーチとともに自衛隊が出撃する」「怪獣の習性を博士が瞬時に断定する」というように、クリシエとは誰もが想像する結論へのショートカットだ。
『シン・ゴジラ』はクリシエを排したかわりに、ショートカットされている部分を埋めるため、物事のプロセスに何が起こりうるかを徹底して取材し、想像した。
この「プロセスへのこだわり」こそが、この映画のリアリティーを生んでいる源で、観客がゴジラと立ち会った感覚を得る一番重要なポイントだ。
◇架空のゴジラを「科学」で解く
たとえば、前述の(1)「怪獣の出自・性質をめぐる物語」について。
ゴジラが一体どういう生き物なのか。
ゴジラとの攻防が続く一方で、巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)のメンバーが、断片的な情報を積み上げながら、その代謝メカニズムを特定していく。
従来なら特権的な専門家が、最短距離で結論を出すようなところだが(たとえばギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』で渡辺謙が演じた芹沢猪四郎博士はまさにそういう役割だった)、巨災対のメンバーはそれぞれの知見に基づいて、推察し、互いの意見を聞きながら、「ありうべき結論」へと迫っていく。
架空の生物ゴジラを題材にしている以上、こうしたディスカッションは完全に科学的なものにはなりえない。
むしろ科学的なターム(専門用語)をちりばめつつも、そのプロセスに「事実を見極める視線」や「仮説とその修正」、「直感的ひらめきによる前進」といった科学に必要な姿勢を盛りこんでいるところが重要だ。
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※さらに続きます。
◇東日本大震災を想起させる都市破壊
また(2)「怪獣による都市襲撃」に注目すると、映画前半の蒲田から品川にかけて繰り広げられる都市破壊が印象に残る。
特にゴジラが周囲を破壊しながら呑川のみがわを遡上そじょうしてくるシーンは、津波が河川を逆流した東日本大震災を思わせる。
ここでゴジラは、ただやみくもに移動しているだけなのだ(焦点の定まらない目が、ゴジラが人間を気にかけていないように見える)。
ところが、そのプロセスそのものが、大災害として人間を巻き込んでいく。
リアリティーは、記憶によっても喚起される。
大量の瓦礫がれきが押し流されてくるビジュアルは、観客の記憶を喚起して、「怪獣の上陸プロセス」を“まるで本物のような”出来事として見つめることになる。
◇自衛隊の描き方へのリアリティー
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そして(3)「怪獣を止めようとする人間との攻防」。
再度、鎌倉から上陸したゴジラを自衛隊が迎え撃つ中盤以降の展開は、まさに「戦争映画」といえる。
作戦の立案があり、実行があり、そして力及ばずの撤退がある。
見せ場としての戦闘シーンにも力が入っているが、それと同じか、それ以上に、シビリアンコントロール下にある自衛隊の意思決定プロセスにも描写を割いているところがポイントだ。
これにより本作の自衛隊には無類のリアリティーが与えられることになった。
◇従来にはない「政治」要素も
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プロセスへのこだわりは、従来の怪獣映画にはあまり見られなかった要素も呼び込むことになった。
それは「政治」である。
政治とは、意思決定のために利害を調整し、交渉を行うプロセスそのものだ。
各プロセスを重視する『シン・ゴジラ』である以上、(1)~(3)の動きを統括する政治にも触れないわけにはいかない。
かくして会議のシーンが連続する極めて珍しい「怪獣映画」が出来上がった。
これもまた東日本大震災をはじめ、観客の記憶と呼応して作品のリアリティーに貢献しているのはいうまでもない。
このように、この映画は徹底的にプロセスにこだわることで観客にとって無視できないリアリティーを生み出した。
では、なぜ無視できないほどのリアリティーを求めたのか。
それはゴジラの存在を観客に信じてもらうためだ。
あのお馴染なじみ“ゴジラ”ではなく、まったく未知の存在としてのゴジラ。
作中で怪獣という言葉が使われないのも(「海獣」という言葉は出てくるが)、未知の存在として扱う姿勢の表れだ。
ゴジラという存在にリアリティーを感じた時、観客はそれを「我がこと」のように語りたくなる。
究極生物への科学的想像、巨大災害と政府の対応、自衛隊のありかた、政治家のあるべき姿等々。
それはつまりゴジラが、「人気のキャラクター」から「観客の日常を巻き込む未知の恐怖」へとたちかえったということでもある。
思えば、庵野秀明総監督は、ジャンルを解体するのではなく、ジャンルの魅力を殺さず再生し、さらに先鋭化させていくタイプの作り手であった。
初監督作『トップをねらえ!』も、ライフワークといってもよい『新世紀エヴァンゲリオン』もそういう作品だ。
『シン・ゴジラ』もまたその系譜の上にある作品といえる。
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※以上です。
スレッドURL:http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/mnewsplus/1472925964/
うーん、何かちょっと違う気がする。
ゴジラはいわゆる怪獣ではあるけど
この作品では記号なんだよな。
確かにこれらに近いような。
芸能界が完全に死んだ1年として記憶される記念碑的年になっていただろうからな
アニメ映画が興行収入50億超え4本で邦画実写は0になるところだった
まぁ、ガンツの3DCG映画次第でさらに芸能界は危機になるんだろうが
中盤: ゴジラ無双in東京をエンジョイ
終盤: いい意味で大人用トミカ映画として味わう
おまけ1: 石原のミスキャスト感とチラリと見える谷間を紳士的に嗜む
おまけ2: 途中から「鈴木先生」見てるような気にもなってきてお得
まさに前半中盤後半はその楽しみ方だな
残念なのは新幹線と在来線の爆弾
あれはCGじゃなくて模型でやって欲しかった
模型っぽいCGに敢えてしてたんだとおもう
そこが今っぽさで懐古しすぎて無くてよかった
天才現わる
まさにこれ
単に放射能を帯びたゴジラが現れたら、どうするかスペクタクルにしか思わんかった。
映像から明らかに311オマージュだと分かるでしょ
記事でも触れてる津波のシーンとか
繰り返し出てきたニュース映像とか
ヤツシロ作戦でポンプ車使っての冷却作業とかも
素材としての311なのか
逆に311を見せるためのゴジラなのかは見た人次第なんだろうが
シン・ゴジラの特徴はリアリティを持たせる努力だな
その割にヤツシロ作戦は全く空想的だったがw
興行収入
序: 20億円
破: 40億円
Q: 52.6億円
でまあ新ゴジが60億超え確実で庵野レコードまでは凄いねって話なんだが
コナンのアニメ映画が普通に65億とか聞いて震える
シンゴジラは良くも悪くも災害対策シミュレーションドラマだから
おれはそこまで楽しめなかった。
・ニート
・集団で仕事をしたことが無い人
・何かを成し遂げた人が無い人
普段、仕事でいろんなプロジェクトに携わってる人がこの映画観たら
「よーし、おれも仕事頑張るぞ!」
って前向きな気持ちになれるよ。
むしろ引きこもりヲタの方が「面白くなかった」って感想っぽい。
なるかあ? 「だよなー会議だるいよなー」ってなるだろ
そういう風に共感できる部分もあるかなw
いろんな意味で、
巻き込まれなくてホントによかったって思う映画だよな
逃げるにしろ戦うにしろ
会議や研究もディフォルメされて幼稚化してるし、映像や撮り方も洋画のようなスタイリッシュさもない。
乗り物オタクや自衛隊オタク向けの映画です。
畏怖というより恐怖を感じさせる強大なゴジラ
皆それぞれひたむきで職務を全うする政府軍人民間人上層部現場老若男女
個性的な対策チームと失踪した博士とゴジラの体の謎解き
とても良かった
さくさくテンポよくわかりやすくて良かった
会議シーンを退屈なくテンポよくわかりやすく見せられるとかエラい
発射していいかどうか伺うシーンの、上向きの伺いと下向きの指示のサクサク感ね
余貴美子の眼力よかった
役割・人物造型については語りたくなるわw
いいアクセントとしてとるか
単に邪魔なキャラとして見るか。
俺は好評価だな。
彼女がいなきゃ飽きてた。
後半は単調だし、あの映画は。
自身のリアル体験と比較しつつ、気持ち良い嘘に騙されてる感じで