source: KUBRICK.blog.jp|スタンリー・キューブリック
巨匠、デヴィッド・リーンが監督した『ドクトル・ジバゴ』(1965)の2015年版の予告編。
〈前略〉
イギリスの映画史家ジェームス・フェンウィックは、1959年1月8日付の手紙を見つけて驚きました。キューブリックはパステルナックに手紙を書き、前作『突撃』が高評価だったことを伝えました。「私たちが作った最新映画『突撃』はベルギー、ブラジル、フィンランドで最優秀作品賞を受賞しました」「『ドクトル・ジバゴ』の映画化権を購入したいと考えています。この本のイタリアの出版社の代表であるニューヨークの法律事務所には連絡済みです。交渉はまだ準備段階で保留中です」
さらなる証拠書類は、キューブリックとプロデューサーであるジェームズ・B・ハリスが1598年12月には本の権利を入手したいと考えていたこと。そして彼らがカークの会社であるプライナプロダクションと話し合っていることを明らかにしています。
〈以下略〉
(全文はリンク先へ:The Guardian/2020年11月9日)
当時カーク・ダグラスと『スパルタカス』を制作中だったキューブリックが、1959年1月8日付の手紙を『ドクトル・ジバゴ』の作者ボリス・パステルナークに宛てた、映画化したいとの旨を綴った手紙が発見されたそうです。
キューブリックはこの頃、カークとの契約にしばられていました。当時制作中の『スパルタカス』の他に数本はカークのプロダクションの傘下で映画を撮らなければならないのです。当時キューブリックは全くの無名監督でした。ですので、映画を撮るにはカークの名声にすがるしかなかったのですが、その検討中の作品の中に『ドクトル・ジバゴ』があったという事実はちょっと驚きでもあるし、原作に有名小説を選びたくなるほど当時のキューブリックは名声を欲していたと考えれば、さもありなんという感想もありますね。
キューブリックはエイゼンシュテインなど、ソビエトの無声映画に魅せられていましたし、カークのルーツはロシアにあります。赤狩りの嵐も沈静化しつつありました。そう考えるとこのチョイスはごく真っ当に思えますし、まだ飛行機恐怖症でなかったキューブリックはソ連でのロケも考えていたことを考えると、もし権利がリーンに渡らなければ、キューブリックが『ドクトル・ジバゴ』を撮っていた可能性があったということになります。ただ当時、リーンとキューブリックでは知名度、名声の面で随分と差があります。パステルナークがいくらカークの名前が手紙にあるとはとはいえ、全くの無名監督であるキューブリックに自作の映画化権を渡さなかったのは理解できる気がしますね。
キューブリックはこの時、同時進行で『ロリータ』の企画を進行中でした。この『ロリータ』に難色を示したのがカークです。カークは当時ポルノ小説扱いだった『ロリータ』を問題視し、キューブリックとの契約を解除しました。晴れて自由の身になったキューブリックはその後『博士の異常な愛情』『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』と次々と傑作を発表し、今やリーンをしのぐ知名度と影響力を獲得しました(リーンの業績を軽視しているのではないので念のため)。そう考えると、キューブリックがカークの庇護のもとに『ドクトル・ジバゴ』を撮っていたら、その後の傑作群は生まれなかった可能性があるわけで、この未完に終わった『ドクトル・ジバゴ』については、個人的には「撮らなくてよかった」と胸をなでおろしています。
余談になりますが、キューブリックの名前が一般化しはじめたのは『ロリータ』『博士の異常な愛情』の頃からで、決定的になったのは『2001年宇宙の旅』を発表してからです。ですので、それ以前の作品群(具体的には『スパルタカス』以前)や、その頃(1960年以前)の話題について「あのキューブリックが〇〇を〇〇していた!」と評するのは事実誤認を生むので注意する(当時のキューブリックの知名度を考慮すべき)必要があると管理人は思います。